佐藤は、毎朝鏡の前で小さな絶望を繰り返していた。三十代半ばを過ぎた頃から目立ち始めた薄毛は、今や隠しきれないほど進行していた。彼はあらゆる育毛剤を試し、髪型を工夫し、黒い粉を振りかける日々。その努力は、彼のプライドを守るための必死の抵抗だった。しかし、隠せば隠すほど、彼の心はすり減っていった。ある雨の日、取引先との重要な会議に遅れそうになった佐藤は、駅まで全力で走った。会社にたどり着き、トイレの鏡で身だしなみを整えようとした瞬間、彼は凍りついた。雨と汗で黒い粉は流れ落ち、必死にセットした髪は無残に濡れそぼっていた。そこに映っていたのは、哀れで、惨めな自分自身の姿だった。その夜、佐藤は眠れなかった。鏡の中の男の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。もう、こんなごまかしは限界だ。夜が明ける頃、彼は一つの決意を固めた。翌朝、彼は理髪店の椅子に座っていた。「一番短く、お願いします」。理容師の躊躇う手を制し、彼は目を閉じた。バリカンが頭皮を滑る感触が、不思議と心地よかった。全てが終わり、目を開けた時、鏡の中には見慣れない男がいた。しかし、その男の目には、昨日のような哀れさはなかった。そこには、何かを吹っ切ったような、静かな覚悟が宿っていた。会社に行くと、同僚たちは一瞬驚いたが、すぐに「似合うじゃないか」「潔くていいな」と声をかけてくれた。その反応に、佐藤は肩の力が抜けるのを感じた。もう何も隠す必要はない。彼は、ありのままの自分でいることの自由さを、初めて知った。今では、鏡の中の男は彼の親友だ。彼は毎朝、その親友に向かってにっこりと笑いかける。それは、新しい一日を、新しい自分として堂々と生き抜くための、大切な約束なのだ。